差動装置に象徴されるように、オネシフォールの才は、メカニックに新しい演算ユニットを用い、ムーブメントに差し引きを行ってシステムの均衡を維持させたことにあります。メカニックの均衡を調整する手段が発明されたのです。
21世紀を迎えた現在も、オネシフォール・ペックールは、複雑なシステムを備えた発明を通じて美しいメカニックの実現を促したパイオニア、情熱のアーティザンのイメージを称揚しています。
6カ月で教師と
肩を並べた実力
19世紀の初頭、イギリス軍の攻撃に備えるナポレオン軍の部隊が、イギリス海峡に宿営していました。つまりパ・ド・カレ県にあるペックール家の農園の近くに、皇帝軍が寝泊まりしていたのです。
こうしてペックールと軍人たちとの間で会話が交わされ、彼らがストラスブールやミラノの時計店で目をとめたメカニズムについて聞き及びます。時間だけではなく、太陽、月、星座を表示する時計の話は、オネシフォール少年の心を強く捉えました。1804年、わずか12歳の少年は、こうして時計のメカニズムとの運命的な出会いを果たしたのです。
師をあおぐこともなく、時計といっても正確さに欠ける時代がかった木製品しかない田舎にありながら、ペックール少年はメカニズムを開発し、日、月、週、ムーンフェーズ、星座をも表示する歯車装置を生み出しました。時計の世界に魅了された少年は、生涯に渡ってその情熱を抱き続けます。故郷のパ・ド・カレを離れ、パリの著名な時計師のもとで学ぶ決意を固めます。
当時のパリでは、時計師のアトリエでの4年間の修行が常套手段でした。時計の奥義を理解し、自らの手でその精密な機械を生み出したいと願う少年の目には、あらゆるものが意義あるものとして映ります。この期間に時計の伝統技術を学び得た者のみが、時計師として独立できました。
オネシフォール少年の天賦の才は、たちまちに知れ渡ります。1812年、情熱に突き動かされ風変わりな発明品のみを手にして上京した少年は、能力認定期間の半減を願い出ます。この申請は受理されたものの、その必要性が皆無であることは明らかでした。オネシフォール・ペックールの日々は、歯車、ピニヨン、スパイラル、テンプ、香箱車、クラウンに対して費やされるようになります。20世紀の幕開けに、ペックールの才能が開花しました。